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私はすみっこで小さくなっていた。
早く帰りたい。
皆が真っ青な顔をして、涙を浮かべている。
ばかみたい。早く帰りたい。
今日は友達と約束があったのに。
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おじいちゃんが死んだときも、何も思わなかった。
幼すぎて、よく覚えてないだけだけど。
幼い頃からの癖で、右を向いてうずくまる。
抱きしめるものは、何もないけれど。
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ここはどこだろう。記憶にないのに、懐かしい場所。
夢のはずなのに、意識はしっかりしている。
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「おい!それくれよ!」
甲高い声が聴こえて振り返ると、不思議な生物が飛び跳ねていた。
その生き物は、自分のことをカビだと言った。
「…これが欲しいの?」
たまたま付けていただけのストラップ。
それをあげると、カビは変な形の飴をくれた。
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飴は見たことのある形をしていた。
これは、確か…
気が付くと、カビは居なくなっていた。
ひとり残された白い空間で、考える。
そういえば、いつの間にここに来たんだろう。
景色はくるくると変わる。
そうだ、これは、幼い頃におばあちゃんが買ってくれた…
目の前にドアが現れた。
飴を握りしめたまま、私はドアノブに手をかけた。
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目の前に広がった景色にびっくりして、思わず後ろを振り返った。
今通ったばかりのドアは、跡形もなく消えていた。
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「おっ ええもん もってるやん!くれや!」
甲高い声。カビは私の手から飴を奪い取った。
びっくりはしたけど、何とも思わなかった。
「…これは…?」
カビが代わりにくれたのは、汚いぬいぐるみだった。
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またいつの間にかカビは居なくなり、私は真っ白な空間に居た。
どうやらカビと何かを交換すると、ここに来るようだ。
景色がくるくると変わる。
どうしても欲しいと駄々をこねたこと。
親は相手にしてくれなくて、おばあちゃんが買ってくれたこと。
毎晩抱きながら眠ったこと。
いつの間にか、居なくなっていたこと。
思い出した。大切だったぬいぐるみ。
この子の名前は確か…
目の前にドアが現れた。
くーちゃんに別れを告げるように、もう一度強く抱きしめた。
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この世界のルールも、大体わかってきた。
この淋しい景色も、すぐに終わる。
そう思うと、急に愛しく思えてきた。
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「くま!くま!くれ!!」
予測通り。甲高い声のカビが飛び跳ねている。
くーちゃんを渡してしまうのは名残惜しかったけど、
次に何をくれるのかが気になって、渡してしまった。
「あ…これ…」
なるほど。そうきたか。
カビはどこから出したのか、ピンクのトウシューズを渡してくれた。
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白い空間で目を閉じる。
景色を見なくても、思い出せる。
マンガに憧れて、バレエを習いたいと言ったこと。
親には続くわけがないなんて馬鹿にされて、
悔しくて結局6年通い続けたこと。
レッスンを続けて、やっとトウシューズを履けるようになったこと。
本当に嬉しくて、バレエ専門店まで
おばあちゃんの手を引っ張って走った。
最後にもう一度履いてみようかと思ったけど、
今の私には小さすぎる。
目を開けると、想像通りのドアが現れていた。
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遊園地の死体。その言葉が一番に浮かんだ。
どうしてドアの外は、こんなに淋しい景色ばかりなんだろう。
不気味なうさぎの着ぐるみを横目に、カビの出現を待っていた。
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「おい!」
笑顔で素早く振り返った私に、カビは少し驚いたようだった。
「これが欲しいんでしょ?」
そう言うと、カビは嬉しそうに飛び跳ねた。
今までとは変わって、慎重に取りだされたそれ。
見た瞬間、鳥肌が立った。
それは、大切な大切な…
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「これはね、おばあちゃんが若い頃、おじいちゃんに貰ったんだよ」
「綺麗!可愛いね。良いなあ」
「おばあちゃんが死んだら、あげるね」
今すぐ欲しくて、こっそり部屋に持ち帰った。
年老いたおばあちゃんより、若い私の方が似合うなんて、
残酷なことを思った。
友達との待ち合わせへ走る途中、ブローチはどこかへ消えていた。
おばあちゃん、ごめんなさい。
ブローチ返すから、ずっといらないから、死なないで。
涙は後から後から溢れてくる。
ごめんなさい。ごめんなさい。
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気が付くと私は、白い空間ではなく、白い病室に居た。
おばあちゃんが静かに息を立てて眠っている。
私の手には、あのブローチ。
おばあちゃんが目を覚ましたら、何て言うだろうか。
これは私とカビだけの、秘密。
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